昭和21年3月、各赤十字病院の労働組合が結集し、全日本赤十字従業員組合(全日赤)を結成。日本赤十字社の機構の民主化を目指して、労働協約の締結、人事委員会規則、給与委員会規則、就業規則等の整備に取り組んできました。 |
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しかし、 30年代に入って、内部を多数の容共左派分子が占めるようになり、規約改正まで行って総評加盟を実現し、全日赤は日赤に勤務する職員の組合であるにもかかわらず、外部の人間にその主導権を握られ、偏向的な上部団体に完全に操られることになったのです。
昭和35、36年の医療闘争においては、全日赤指導の病院ストが泥沼化し、結果的には病院経営を悪化させ、多くの病院が経営危機に追い込まれました。 |
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ここで良識ある多数の職員が立ち上がり、全日赤を脱退した名古屋第一日赤(医従連 を結成)を先頭に、本社・支部職組、全日赤脱退労組、未組織の職員等が全国組織として大同団結し、赤十字職員としての意識の高揚と労働運動の正常化を図るため、日赤職員統一協議会を結成しました。 |
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昭和36年9月、日赤職員統一協議会は発展的解散を遂げ、三重県伊勢市において結成大会が挙行され、日本赤十字新労働組合連合会(日赤新労)が誕生したのです。この結成大会における大会宣言とスローガンは、基本路線の徹底と身近な問題の解決を運動方針の基調とし、以下の通り決定されました。 |